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かつて劇団と名乗っていた頃から現在までの、新生 鈴音座の歴史を振り返りながら、
様々な出来事、逸話などを紹介します。



=====「劇団」を名乗っていた時代=====
1990年・夏 小笠原齋、美佳江、林雅彦、3氏で1年後の旗挙げを目標に 、劇団を結成する。
1991年・夏 アートシアター新宿(ジュク)にて旗挙興行。さまざまな因果関係が始まる。 初日、空調の音がうるさいと、空調なしでの公演。お客様からかなりのヒンシュクをかう。以降は空 調を入れている。また、舞台が部屋の中で、ゴザを敷き詰めた為両面テープを床に貼り、跡が残っ てしまい小屋の支配人(岩崎氏)から、鈴音座は・・・と末代まで言われる。(現在も何かとお世話に なってます。)
1992年・春 第二回興行。おもちゃの鉄砲を乱射し、客席より『イタッ』という声があがり 、全員ひやっとするが、怪我もなかった。稽古で使い過ぎて壊れたようであった。小屋の閉館の為 、アートシアター新宿(ジュク)では、この興行が最後となる。ここから、行く小屋全てがその後閉館 してゆく、『小屋潰し劇団』というジンクスが生まれる。(アートシアター新宿は本当に良い小屋でし た。たっぱが高く、奥行きがある小屋が好み)
1992年・冬 スペースDEN(新宿ゴールデン街脇)にて第3回興行。動員数がかなり少 ない芝居となったが、劇団関係者からは、かなり評判の良い作品。本番、音響が遅刻して演奏者 である後籐昌彦氏が、ベースでBGMを即興演奏するというハプニングもある。シャ幕にラベンダー の香水を付けた為(演出上)、臭い芝居となる。スペースDENも閉館となり、こだわり続けた新宿を 追われることとなる。(立地は1番好きな小屋だった。まわりの◯翼の車が恐かったが。芝居の内容 からして。)
1993年・夏 池袋文芸坐ル・ピリエにて第4回興行。池袋でも、新宿を題材とした芝居を する 。新宿3部作の完結編。小屋の規模が大きくなり、パワーアップ。
1994年・春 荻窪アールコリンにて、実験興行Vol.1。アートシアター新宿の岩崎氏と再 会する。出演者の自作自演の短編をオムニバスで綴る。稽古でのエチュードを練って作品にした。
1994年・秋 池袋文芸坐ル・ピリエにて第5回興行。始めてスライドを使ったり、大階段 を作ったり、音響の外部発注長柄氏の参加で、更にパワーアップ。
1995年・春 東中野エウロスにて実験興行Vol.2。安田貴憲初のプロデュース作品。演 出は大久保朗。オリジナルの3作品を上演。出演は全て座員。と旗挙当時からやりたかったうれし い興行なる。
1995年・秋 池袋文芸坐ル・ピリエにて第6回興行。船上という舞台設定、ヌキ板を敷き 詰め、ニスを塗り、蜘蛛の巣まで張るというかなり大掛かりな舞台を造る。舞監、山内大典の本領 発揮である。この時から桐朋学園時代のメンバーの松川純也が合流。この後やはり、文芸坐ル・ピリエも閉館となる。


=====「劇団」という看板を外し、「鈴音座」と改名以降=====
1996年・春 劇団事務所が火事となり、全焼する。その後、座員も退団 し、主催者のみとなったため、「劇団」という看板を外し、「鈴音座」として再スタートをきる。 今日まで水面下の活動を続け、とうとうこの99年11月新たに発進する!
1999年・秋 駒場アゴラ劇場にて、小笠原齋プロデュ−ス(または齋的)鈴音座、「鈴 音・転章之壱 混色の地平」上演。役者の一人が交通事故というアクシデントもあったが、なんとか 幕があいた。舞台に出没したD51にはみんな驚いた。
2000年・冬 小笠原齋が劇団俳小 第26回本公演「賢治幻想譚 ヨルとシュラ」 に脚 本を提供。演出の入谷俊一氏と殴りあいながら(事実?)台本を完成させた。 東京芸術劇場小 ホール2(池袋)にて上演される。 
2001年・冬 こまばアゴラ劇場にて「飛行少年」上演。 本番1週間前にやっと台本が 上るという初めての失態。書いた本人も出演していたが、彼が一番台詞を覚えられなかったらしい。  スタッフ陣のテンションが高く、装置・音響・照明は評判になった。 



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